ヤマハ人生42年「辞令の思い出」
 
私の思い出の品は数枚の「辞令」です。 「辞令」それはサラリーマンにとって会社を辞めるまで生活の全てを規制する
と云っても過言ではない、そしてサラリーマン生活の喜怒哀楽全てを知っているものではないでしょうか。 辞令にも
いろいろな辞令が有ります。採用、昇給、職場異動、職制変更、転勤等々です。 私もこれら全ての辞令を頂きましたが
いま改めてそれらの辞令を見るとその辞令本来の目的以外にその当時の会社の雰囲気や風景が蘇って来ます。
A 最初の辞令

   
    昭和32年入社の高卒男子でこの頃は高卒の男女は支店採用でした。
    写真は研修中に本社事務所の前で撮影。
    向かって左から ★後列・日吉君(東京・故人)加賀君(大阪)
    神田君(東京・消息不明)早川君(東京)羽田君(名古屋)弓削君(九州)
    貴島さん …鹿児島十字屋元社長 この年慶応を出て銀座店で見習い中
    ☆前列・小池君(東京・消息不明)? 木田君(大阪・OB会監査役)
    大居君(北海道・消息不明)橋本君(東京・故人)高島君(名古屋)   
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「入社辞令」 私は昭和32年(1957)、商業高校を卒業と同時に「日本楽器製造株式会社東京支店」に入社しました。日本楽器製造の創業70周年の年でした。同期は男子6名、女子9名の大量採用でした。私の配属は小売課ピアノ係でした。当時<社内的>には「銀座店」という呼び名は無く東京支店小売課と云っていました。私が大阪支店から東京に戻った昭和41年の辞令には「東京支店銀座店楽器係を命ずる」  となっています。この頃には渋谷店や池袋店が出来ていたので銀座店とか渋谷店という呼び方になっていたのでしょう。4月1日の初出社の日に渡されたのが上の辞令です。  この辞令には当時の「日本楽器製造」の給与システム、社員の身分制度など今では想像もつかないことが記載されています。
イ)  給与システムについて・・・・月給は2度払い!
・辞令の一行目に「・・・月俸金参千八百五拾圓支給ス」(¥3,850)とあります。
・学校への求人資料には「初任給¥7,700」となっていました。
・当時、月給は月の15日と月末の2回に分けて支払われていたのです。 正式な初任給は¥3,850なのです。
・15日には¥3,850がそのまま支給されます。月末には残り¥3,850から税金や失業保険や 給食費などいろいろなものが
差し引かれて支給されます。従って月末に受け取る月給は額面の半分くらいしかありませんでした。
☆唯この給与システムには独特のシステムが付随していました。
・それは、月末に受け取る¥3,850には10〜20%の割り増しが付くのです。
・この数字は浜松の本社工場で作るピアノの生産目標達成率に連動していて計画をオーバーした時はそのオーバー分が
給与に上乗せされるのです。  中々面白いシステムですが自分の給与の一部が工場の人たちの手にあると思うと何となく
おかしな気分でした。

◆ここで少し余談・・・ ・私の初任給が¥7,700であることは既述の通りですが当時この¥7,700と云う初任給は
如何にも地方都市の会社の初任給と云う感じでした。 ・当時高校卒の最高の初任給は「東京海上保険」の¥10,500と
いう記憶が有ります。 ただこの会社には学年トップでないと入社試験を受けられませんでした。 ・また、ビール3社も
¥9,000前後で結構人気が有りました。  商業高校出身者にとっての定番は銀行ですが大体¥9,000前後でした。
★ちなみに、この頃ヤマハで一番安いピアノはアップライトピアノU1A型で¥195,000でした。 このピアノを買うには
¥7,700の月給では飲まず食わずで貯金して2年4か月位掛かります。 ピアノはそれ程高級品でした。

ロ) 身分制度について
・上の辞令に「准社員ニ採用シ・・・」とあります。
・どこの会社も採用後3か月〜半年間試用期間が有りますが日本楽器のこの制度はそれとは違います。
・大学卒は社員補、高卒男子は准社員、高卒女子は雇員という実にきっちりした身分制度が有ったのです。大学卒の
社員補は1年で社員になります。高卒男子の准社員は5〜6年かかって社員補、 社員になります。しかも、「英・国・数」
の試験を受けてです。でも幸いなことにこの試験制度は前年に無くなっていました。私は社員になるのに6年かかり
ました。
・女子の雇員、当時は入社して5、6年で結婚退社するケースが殆どでしたので准社員や社員補になったと云う話は聞い
たことが有りません。
・それから、主任、係長、課長といった役職には社員補以上でないと付けない仕組みでした。 ※給料2度払いや身分制度
がいつ無くなったのかはっきりした記憶が有りません。  私は32年に入社し3年間銀座店でピアノ係(外売担当)をして
35年に都内卸(特約店担当)に移り38年に大阪に転勤になりました。  多分、35〜36年頃にこれらのシステムが無く
なったのではないかと思います。

ハ) 今なら大問題・・・女子のセクハラ入社試験  
・辞令には出ていませんがこんなことがよくぞまかり通ったという女子社員の入社試験が有りました。当時はまだセク
ハラなんて言葉は有りませんでした。  
・何しろ女子の就職は嫁入り前の腰かけ就職と周りも思い、本人もそう思っていた時代です。 面接では結婚したら退職
する事を前提に話が進められたとも聞きました。。  
・いくらそんな時代にせよ日本楽器のやったことは凄い!   何をやったのか?  
 《昭和30年入社の原 京子先輩の体験談》  
 入社試験を受けにきた女性は先ずヤマハホールに集められます。ホールのステージは緞帳がおろされ金屏風が置かれ
 その前にロープが張られます。受験の女性たちは下手からステージに上がり採用係の男性4人が並んだ前で名前を言い 上手から降りる・・・客席にいる大勢の受験者にはみえないようになっていました。その後受験番号が読み上げられ
 たものだけが貸切バスで筆記試験の会場へ行きました。筆記試験に行ったのは当初の半分以下になっていました。

・今どきこんなことをしたら大問題になりますし場合によってはその企業はつぶれるでしょうね。  
・これも33年には廃止されたようです。